人はなぜ知っているような気になるのか?
このことの意味は、知らないことを知ることが大切ということである。
この”無知”というものを科学的に考えたものが
という本である。
この本は、いかに人間が物事を理解していないを切実に教えてくれる。
例としてたびたび挙げられているものにトイレやファスナー、スマホといった日常生活に不可欠なものがあり、これらは生活で使う上では便利で我々は使いこなせていると思っているが、その原理的構造などを理解して使用している人はほとんどいないと言っている。
実際、トイレがどうして流れるのかとかファスナーがどうして開け閉めできるのかといったことを把握していなくてもトイレもファスナーも使えている。
そしてなんとなく理解しているような気になっているのも事実である。
このように人間は理解しているようで理解していないことは往々にしてある。
ただ、理解したように錯覚するのである。
特に本書で言われているのは、その知識にアクセスすることができると知ったような気になりやすいということである。
例えば、ネットで10分程度調べただけでなんか知ったような気になるといったことである。
本書ではそのことについて、人間は”認知的分業”を行う性質があると言っている。
結果として誰かが知っているならそれでよしということである。
現実として情報量は指数関数的に増加してどんどん世界は複雑化してるからおよそ正当な行為であるということも言っている。
物理的に無理ということだ。
それゆえ、専門家とか誰かが理解していて、自分はその理解されてることを知っているならそれでいいということになるのだろう。
そして知らないということを知らないという状況になるのである。
この無知を自覚するためには因果的推論を行うことが良いと書かれている。
例えば、ファスナーはなぜ開け閉めできるのだろうということを考えてみるということである。
こうしてみると、大方の人が説明に窮するのではないかと思う。
実際自分もよくわからない。
そこで初めて自分はファスナーのことをよくわかっていなかったんだということを認識できると思う。
このように個人がいかに知的にちっぽけな存在であると必然的に他人と協力することが必要になる。
つまり、知を共有するということである。
これからの時代は個々に知識を増やすことも重要であるが、それ以上にいかに他人と協力できるか、集団に貢献できるかといったことが大事になってくると言っている。
ただ補足しておくと、本書では知ってるつもりになる錯覚が必ずしも良くないというものではないということも言っている。
時として知的”傲慢さ”は道を切り拓きうるからであり、アメリカ大陸を発見したコロンブスがいい例である。
この場合良い意味で無知であったということである。
小利口よりもむしろバカというのはこういうことなんだろうと思った。
しかし社会やコミュニティ全体で特定の錯覚に陥ると危険な場合がある。
カルト集団が生まれるのもそういったことに由来すると。
以上のように、知るということを考えてみると非常に難しい問題であることが分かる。
ぜひこの本を読んで知と無知について考えてほしいと思うし、それがこれからの人生の在り方を変えるかもしれない。
特に、無知は恐れるものではなくむしろ向き合わなければならないものである。
そのように向き合える人が尊敬される世の中になってほしいと切に願う。
- 作者: スティーブンスローマン,フィリップファーンバック,橘玲,土方奈美
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2018/04/04
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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