読書丸

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なぜ極端なことをいう人間は好かれたり憧れられたりするのかについて

TVのコメンテーターや本では、極端な発言をする人が世の人間の心をつかむというようなことが発生する。

もしくは、それと同じくらいに嫌われたりもする。

卑近な例を出すと、男は金だとか、結局男も女も顔でしょとか、中国は危ないだとか、

これについて少し考えてみたい。

 

まず、個人的な感覚で申し訳ないのですが、白黒を付けないと気が済まないという人が多いように感じる。

どういうことかというと、物事が複雑であるのではなく、単純であってほしいと望む人が多いということである。

何か問題が起こったときに、多くの人は手軽な原因を望むが、単一の原因からなる事象などありえないというのは、バタフライ効果を考えればわかるであろう。

すなわち、「ああだからこうなる」といったような単純な因果を望むが、世界はそんな簡単にはできておらず、不確実性に満ちているのです。

残念なことに人間は不確実性をあまり好ましく思わないもので、その結果、それを無視したお手軽因果を知りたがるし、知れれば満足もする。

そして、極端な二元論に陥るのである。

それが、白黒つけさせることにつながるのだろう。

まとめると、人は確実な意見である白黒を好む傾向があるのではないかと思う。

そう思って自分を納得させたいのであろう。それが認知的不協和というものなのだろう。

どちらの意見側になるか、白なのか黒なのかは、さして問題ではないのである。

 

そのような極端な意見を人は好むと仮定したうえで、次になぜそのような意見を発する人が好かれるのかについて考える。

白黒とした意見を持っていても集団としての調和を求めるという性質を人間は多少なりとも持っているのではないかと思われ、その意見を心のうちに留めるだけで、表に出そうとすることもあまりないのではないかと思われる。

ただ、自己表現をしたいという気持ちもある。

その二律背反を有したうえで、他人が自分の意見と同じようなことを発していると自分が言いたいことを代弁してくれていると感じるのではないだろうか。

そして、その発言を聞くことで、自分が肯定されているような気持ちになるのではなかろうか。

人間は自己承認欲求というものがあるので、自分の気持ちを代弁してくれるような人の話をどんどん聞きたいと思うようになるのだろう。

だから、極端な話をするような人は、自分の気持ちをよくわかっていると感じて好きになるか、全然わかってないと思って嫌いになるかのどちらかとなるのだろう。

 

以上はあくまでも個人的な意見であり、自分も白黒つけたがっているゆえでこのように書いているのかもしれない。

ただ、このような意見、もしくは原因としての可能性もあるのではないかという意味で参考にでもしてもらえると幸いである。

逆説的ではあるが、多数の人の意見を取り入れることが白黒的な意見を持たないで納得できる唯一の方法なのではないかと思うから。

つまり、いろいろな意見を知ることで、あんな見方やこんな見方もできるね、と偏らないで済むのだ。

そうすると、先入観のようなもので判断せずに、よりロジカルに物事を考えることができるようになると思う。