書評とは何かを改めて考えてみた!③
前回の記事
では、「要約」は要約ではないということを説明しました。
すなわち、著者の書く要約と、それ以外の人が書く「要約」は同じではないということです。
今回の記事では、著者以外の人が書くそんな「要約」といわゆる書評の関係について述べたいと思います。
一般的に書評というと、この「要約」が書かれていることが多いと思います。
これについて問題があるわけではないです。
なぜなら、問題となった著者と著者以外の人という視点の違いがむしろ「要約」を書評たらしめているからです。
どういうことかを詳しく説明します。
「要約」というのは、書評を書く人の重要性が押し出されるという話をしました。
いわゆる二次情報化です。
これはすなわち、「要約」を書くだけで、その人の重要性があらわになるので、書評を書く人の意見が直接的であろうと間接的であろうと、にじみ出るわけです。
どういうことかというと、自分はこの本を読んでここが大事だと思ったという意見を述べているのです。
ただ、この意見が著者が大事だと考えるものと必ずしも一致してないのです。
書評というのは以前書評を書く人の視点や意見が必要であるということを話しました。
そう考えると、「要約」というのは要約というよりむしろ書評となるわけです。
議論が混乱しているように感じるのではないでしょうか?!
えっ?なに?結局書評読んでるの!?何なの?ってなるのではないかと。
今までの議論で結局何が問題だったのでしょうか?
自分が結局何が言いたいかというと、書評を読むときに要約だと思って読んでほしくないということです。「要約」なので、、
ただ、書評を読むなと言っているわけではありません。
その書評を読むときにちょっと注意してくださいということです。
具体的には、書評を読んだときに、要約と思わずに書評した人がその本を読んで思った意見なんだなと一歩引いたような見方をしてほしいと思います。
書評を読んで当然新たな視点を授かるということも往々にしてあるでしょう。
ある意味それが書評を読んで済ます手軽さともいうべきものです。
書評読んで何か得られれば、その本を読んだ気になれるということです。
実際、その気になってそれで人生に役立てばいいのですから。
その時の状況は厳密には、その本を読んで気づきを得たというのではなく、その本を読んだ人が感じた意見や大事なポイントを読んで、気づきを得たということです。
つまり、厳しく言えば、別物ということです。
そこを理解しておいてほしいと思います。
それで、そのときにもっと詳しく知りたいと思うのであれば、それほど感銘を受けるのであれば、自身で原典を読んでそれを詳細に追体験するというのも良いと思います。
そういった意味で、書評を読むというのは、ある種のキュレーションとしても働いていると思います。
最初に書いた書評の働きの一つ目に当たります。
一方で、書評を読んで、気にくわなかったり、微妙だなと思った場合はどうでしょうか?
もしかするとそれは、書評を書いた人と自分の重要性の違いが異なっているために生じてしまっているかもしれません。
すなわち、本を読んで通る重要性というフィルターが自分と書評を書く人で違うために、実は本に自分にとって重要なところがあるのに書評を書く人のフィルターがそれを通さなかったのかもしれないということです。
どちらにしろ、特に後者では、書評を読んで満足するのは早計ということです。
ただ、キュレーション的な見方をした場合、それは時間的制約で読める本が限られているので絞らねばならないということであるから、それで読まないと選択するのはおおよそ正しい選択でしょう。
ある意味当てを付けて捨てるべきものを捨てたということですから。
それがキュレーションの最大の目的です。
ただ、書評を読んで読まないと捨てたからと言って、その本が必ずしもタメにならないというわけではないです。
あくまで、その書評の中身が自分の役に立たなかったと感じただけということです。
それゆえ、本自体をおとしめることのないようにしてほしいと思います。
長々となりましたが、結局は、書評を読むときは本の中身を簡潔に知ろうというのではなく、その本を読んだ人が何を思ったか考えたか重要視したかという思いでいてほしいということです。
そして、なるほどこの本を読むとそういう考え方ができるようになるのかということを知るということをしてほしいです。
つまり、本を読んで得られる経験の体験版みたいなものです。
これは自分への戒めでもあるのでこうして記事にしました。
ぜひ皆さんも心掛けていただければなと思います。
それと、要約を知りたいとき、すなわち純粋に本の中身を簡単に知りたいと思うなら、著者の要約すなわちはじめやあとがきを読むことになるのでしょう。
どのみち当該の本を読みましょうねということですね笑